3. ギャラリー 1  茶陶の遊び     お茶碗は何故高いのか


  焼き物の歴史 

   日本の焼き物は、古代 紀元前1万2000年前縄文時代から始まったと言われているが、
  1000℃以上の高温で焼く技術は無かった。7世紀 飛鳥、奈良時代に入ってから、
  当時の焼き物の先進国 中国朝鮮から高温で焼く新しい技術がもたらされた。

  
はじめて釉薬を使った奈良三彩などが宮殿や寺院の仏具や、祭祀の道具が細々と官営の工房で
  造られていた。 平安時代に入ると、
遣唐使などにより釉薬の掛かった青磁白磁などの唐物
 (越州窯など)
が持ち込まれ、貴族にもては
やされた。9世紀になってようやく 高級ブランド品
  である唐物をコピーした高温で焼かれた灰釉
掛った、渥美焼、猿投焼の生産が始まった。
  
しかし1200℃以上の高温で焼いた陶器は高級品であり、庶民の手には届かず、庶民は、
  素焼きの土器や鉄器で煮炊きをしていた

  

  13世紀 鎌倉時代に入ると
、商業が栄え、海路や陸路での交易が盛んになり、中国や朝鮮の焼物が比較的容易に輸入出来るように
 なってきた。それらをコピーしようと六古窯常滑、瀬戸、備前、信楽、丹波、越前)が興隆し、高温で焼く焼き物が出回ってきた。
 釉薬が掛かっていない常滑備前などで 焼き締め 壺、擂り鉢などの生活雑器の生産が盛んになり、全国に普及していった。

  ここに来て、ようやく焼き物が庶民の生活の中に入ってきたと言えよう。 中国朝鮮唐物やそれを真似た国産の瀬戸などの釉薬が
 掛かった焼き物
政治の中枢鎌倉京都に持ち込まれ、高級ブランド品として、武士や貴族の達に珍重され、権威やステータスを示す
 大切な道具となってきた。

  武士が家臣に振る舞う宴席は おう飯(今の大盤振る舞いの語源)と呼ばれ、ブランド品の唐物や瀬戸の水注梅瓶(めいぴん)と
 言われる白磁青磁の酒器と かわらけ という素焼きの杯 で酒を酌み交わし、一回限りで潔く使い捨てたと言われる。

 
このとき捨てた沢山のかわらけが今でも鎌倉の当時の武士の屋敷跡から 発見されている。 このようにして焼き物は 鎌倉時代には
 
武士達などの富裕層にとり、政治的な意味合い をもった必需品となっていく。

茶道の出現
 
  鎌倉時代に禅僧の栄西が唐から持ってきたおは 初めはとして貴重なもので有ったが、次第に
僧侶武家の間に嗜好品としての
 喫茶の習慣が広まっていった。
15世紀から16世紀室町時代になる精神的な茶の世界 茶道が確立されてくる。 
 村田珠光 
武野紹鴎  千利休 古田織部 など名だたる茶人達が織田信長豊臣秀吉などの武将と関わり、茶道を確立していった。

  武将は 戦いに出る時、お茶を飲んで出陣したと言われている。 秀吉は利休をともなって、小田原の戦いの場にも出向いており、
 茶人にとり 茶席は生死の境の場 に立ち会う真剣勝負の場であったのであろう。 また 戦いに勝った武将は 唐物と称した中国
 朝鮮、そして、国内の瀬戸から取り寄せた高級ブランドの酒器や茶碗などを戦勝褒美に賜ることがまさに、最高の栄誉であり、
 出世の証となったのでした。 

 
  このようにして茶道具の価値を利用して 人心を掌握した信長の政治のやり方を 茶の湯のご政道と呼び、信長、秀吉
 名物狩りと称して 名物を力ずくで集め、政治の道具として 武士や貴族の世界で 焼き物が領地や金よりも値打ちの
 もの
となっていったのです。 そんななか 信長、秀吉に仕え、侘茶を育てた 利休達 茶人によって 世界に類を見ないお茶の文化が
 育っていったのである。